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2005.06.29 Wednesday

思えば遠くに来たもんだ

前の職場で発行している分子研レターズに執筆依頼がありましたので,その文をここにも載せてみました。

「思えば遠くへ来たもんだ」

九州大学情報基盤センター 南部伸孝

 小生の出身は,仙台になります。大学と大学院時代を横浜で過ごし,博士課程を中退し,愛知県の岡崎市にある研究所に赴任したのは28歳の夏でした。赴任直後に,業務への多大な作業を負わされ,指導教官には「何をやっているか?」と業務のために赴いた,つくばの環境研の隣にあるビジネスホテルの電話口にて応答する自分が思い出され,D論提出のために必死だった思い出が今も鮮明に残っております。今のポスドクとは違った意味で大変でした。また,その後12年間お世話になるとは思いもよらなかったのも事実でありさらに助手の任期なども全く知らなかった時代です。業務と研究の両立とは何かといろいろな意味で職場の同僚や博士課程に在籍していた学生と議論したことが思い出されます。時代の動きが速く,今のポスドクの方々に相談されても,どのように答えるべきか,思案するばかりです。ある先生は,D論(足の裏のご飯粒,取っても食べられないけど,取らないと歩けない)を取った後,皆,海外へ行くべき!とおっしゃり,ウミガメとして戻ってくるとポストがあると助言します。小生は,これでいいのかと自問自答するばかりです。何が求められ、何をすべきか、混沌としている時代ではありますが、インパクトのある仕事がしたいと願っております。
 さて,堅くなりましたが,近況を紹介しつつ,「分子研を去るにあたり」への寄稿をさせて頂きます。まず新居は,福岡市西区にある九州大学姪浜住宅になります。姪浜地区とは,福岡市営地下鉄の西の終点付近に当たります。一方,官舎の大きさは分子研と全く同じですが,ロケーションが異なり,九大演習林(松林)の中(マムシとムカデに注意)にあります。そこから毎朝,姪浜の駅まで自転車で約1.8km程走り,駐輪場に自転車を置き,約30分程度,「貝塚行き」の電車に揺られて出勤します。8時30分の授業に間に合うためには,8時02分の電車が不可欠で,こちらに来てからは朝方人間への矯正に苦労する毎日です。但し,電車の中での読書に目覚め,またそれが混雑に伴うストレスから解消されることが分かり,一挙両得を得ております。読書と言いますと,小生は元センター長の講釈が思い出されます。それは,司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズです。元センター長の「○○県人が歩った後は,・・・」が忘れられず,この地を知るにはこの本が最適と「肥前の諸街道」を読み切ってしまいました。(先生は,全巻読みなさいとおっしゃるかも知れませんが,今は,ちょっと○○問題を読破しております。)本題に戻りますと,実はこの西区は興味深い史実が沢山あります。福岡周辺をご存じの方なら,糸島半島の約半分(九大が移動する新キャンパスのあるところ)と玄界島も西区なのですが,その付け根付近にこの九大官舎があります。また,官舎の前を唐津街道(202号線)が走っております。1274年,第一次元寇があり,かなりの方が亡くなったところです。鎌倉武士たちは太宰府付近まで後退させられた大変な侵略戦争でした。写真は,第二次元寇(1281年)まで築き上げられた元寇防塁です。2メートルもあるそうで,これによって騎馬戦を得意とする蒙古軍を押さえ,台風の影響で終末を告げたとされます。実はこの防塁が我が官舎の裏にある「生の松原」に埋もれてあるのです。また,玄界灘を望む海岸でもあります。何とも感慨無量です。一方,「玄」と言う文字は全く意識しなかったのですが,三男の名前の一字にあてておりました。(彼はもう3歳になりますが,生粋の博多っ子になることでしょう)さらに唐津には,豊臣秀吉が朝鮮出兵時に築城した「名護屋城」跡があります。「岡崎城」ではないですが,これも何かの縁(般若心経でしょうか)かもしれません。今までこの様なことを考えずに生活して来ましたが,ふと目を向けると様々なことがあり,ここまでたどり着くにも分子研での精進が実を結んだと思っております。12年間という長い間,諸先生方には,ご指導とご支援,本当にお世話になりました。今後ともよろしくお願い致します。
元寇防塁
(2005年6月撮影)